日没

東京はクリームソーダの街らしい

君に似ている

自分にとってこの音楽が、彼らが、どんな存在だったのか。たとえ正しくなくても言葉にしたくて 考えてはいるのだけど、考えれば考えるほど分からなくなる。活動終了の事実と、2016年10月11日の武道館でのラストライブを観たあとで、自分とGalileo Galileiとはなんだったのかを考えたとき浮かんでくる言葉は全部ニセモノのように感じて苦しい。どの言葉もホンモノの気持ちに辿り着かないような感覚で…(別に自分の想いが他のリスナーと違って特別で正しいとかが言いたいのでは全くなくて)特別なバンドだったっていうのはきっと誰かもそうで、いろんな感情が渦巻いているのもそうで、同じような思い出や記憶を持っていることもそうで、それはすごくすごく尊い。喪失でも、青春でも、感謝でも、尊敬でも、何かが埋まらない。きっと、きっとだけど、10代の自分が普通に生きているうえで普通な感情がたくさんたくさんあって、それと一緒の場所にGalileo Galileiも位置づけられてしまった(自分が位置づけたというより後々考えると自然に位置づいてしまうというか)そんな感じなのかな。

出会いは例のごとくSCHOOL OF LOCK!というラジオ番組。ヘビーリスナーだったわたしは、閃光ライオットで同世代からでてきた彼らの音楽と姿には感動と共鳴と嫉妬を思わずにはいられなかった。ラジオから流れてきた「ハローグッバイ当時の単細胞のわたしでもあのイントロ含めサウンドは非常に心地よく響き、それでいて  歩くだけ歩いて疲れて  渡り鳥は飛んでゆくよ  朝も一緒に連れていけよ  こんなに傷つくのなら 「ほら、雨が止まないね」 そんなどうでもいい事話してよ  という気怠げでいながらなにかを求めている歌詞に胸を打たれないわけがなかった。『雨のちガリレオはCDケースが壊れるまで聴きまくっていたし、いきなりのCMタイアップやメジャーデビューに戸惑いながら聴いたハマナスの花もすごく思い出がある。「僕から君へ」が発売されたときなんてもろ大学受験の真っ只中だったし、そういえばその頃初めて1人で行ったライブもGalileo Galileiだった。ドキドキしながら物販の列に並んで、タオルとか缶バッジを買って、荷物とかってどうするんだろうっておどおどしてる間にロッカーは埋まってしまって、荷物と真冬のコートを着たままライブ会場に入った。前の方で観たくて揉みくちゃにされてそれでもあの時の高揚感は忘れられない。たしか汗をかきすぎてその翌日は風邪をひいてしまったんだ。高校生活に馴染めていなかったわたしは、休み時間になんとなく固まる数人の友達とも何ひとつ心が通い合っていないように感じて、眠いふりをしてイヤホンを耳にして机に突っ伏したり、放課後の部活で美術室に行っても非常階段から夕日をながめたり、自転車を漕ぎまっすぐ家に帰って夜はラジオを聞いていろんな音楽に触れ始めていた。当時の尾崎兄のブログで知って聴き始めたSigur RosRadioheadColdplayくるりthe pillowsは 今でも本当に好きで聴いているバンドばかりだ。よく知らない同級生がGalileo Galileiを知っていて(大きく取り上げられたデビュー曲や、アニメのタイアップ曲で)好きだと言っていても当時わたしは「お前らの引っかかった表面的な好きとわたしのは全然違うからな」と心の中で思っているような非常に痛い奴だった。でも多分、本当にそのくらいシンパシーを感じつつ影響を受けまくっていた存在だったからそんな風に思ってしまったんだと思う。

そしてGalileo GalileiからPORTALが生みだされ、わたしはこの音楽性や世界観に言葉通り埋没していった。こんなにも美しく鋭くて、それなのに儚げで無邪気な音楽に対する衝撃と、初めて出会ったとは思えないほど自然に耳に馴染みその景色に想いを馳せた。それがGalileo Galileiから鳴らされていることにより強く特別な感情が芽生えてしまったのかもしれない。このアルバムが当時の海外インディロック、エレクトロ・ドリームポップ、チルウェイブを色濃く影響していることからわたしも当然のごとく海外のインディロックバンドを聴くようになっていった。Bombay Bicycle Club、Passion Pit、The Morning Benders、Kyte、The Pains Of Being Pure At Heart、Two Door Cinema Club、The Drums、FoalsPhoenix、などなどあげればキリが無いけれど、それらは今のわたしの音楽嗜好の指針になっているんじゃないかとさえ思う。しかしGalileo Galileiが作り出すメロディの素晴らしさはインディ時代から変わらなくて、なによりやはり尾崎兄が描く詞の世界にわたしは共感と嫉妬を常に抱いていた。さよならフロンティア 錆びた青空は明け方過ぎたら寒くなって  パーカー羽織った  のやるせなさにドラマを感じていたし  胸にしまった何かを取り出しては思い出せる  にふわふわ気怠く過ぎる18才のわたしは信頼と希望をよせていた。「Imaginary Friends」「Good Shoes」「スワン」「くじらの骨」、全ての曲にそれぞれ思い入れがある。「星を落とす」 映画みたいに燃やして最初から始めよう  あぁ、なんてずるい歌詞なんだ…。シューゲイザーのつよい音色も白昼夢なコーラスも切実な言葉も、すべてを持ってかれてしまう。まさかこの曲が最後までライブの定番曲になるなんて(わたしが好きな曲だけに)夢にも思ってなかったけど、そのくらい特別好きな曲だ。  …本当にこのPORTALというアルバムがつくりだす世界観に想いを馳せ、今聴いても胸を震わせる。そんなときにメンバー2人が脱退し、バンドは3人になった。正直このPORTALが素晴らしい作品だっただけにショックだった。しかしメンバー脱退後その年に同じく発売されたミニアルバム『Baby, It's Cold Outside』全体に漂う無力感、前作から引き継がれた海外インディの音色に生々しいバンドサウンドとエレクトロサウンドの融合。これは3rdアルバム『ALARMS』で見事なポップ作品に花開いたと思う。わたしはますますGalileo Galileiに夢中になっていた。世の中の評価に違和感を感じたり、ライブに行くとやるせない気持ちになることも多々あった。彼らのもがき苦しみながらも音楽をする姿は痛いほど分かった。それでも不安という期待を裏切らず、ずっと彼らの音楽は居場所の分からないわたしの中心に重なっていたのだろう。「Birthday」の歌詞を借りるならば  とりかこむ自由が僕を脅かして  泣いてみたり笑ったりしていた  …廻り続けている  砂時計をどうか  止められたらって  思うくらい  思うくらいだよ  …愛を知る頃には戸惑っていた  いったい僕は何になるんだろう?  それは本当に時の流れを感じることだし、変わっていくことを感じるし、変わらないことを感じる。

いったい僕は何になるんだろう という投げかけをした彼らはそれからも足を止めることはなかった。わたしは変わらず彼らの活動を楽しみにしていたし、新曲がでれば一喜一憂していた。そして4thアルバム『Sea and The Darknessの発売とそれに伴うツアーをもってGalileo Galileiを終了することが発表された。わたしは言葉がでなかった。どうして、嫌だ、納得できない、それでもいい…そんな言葉もでないで、思うのは ただただ特別なバンドが終わる という事実だけで虚しかった。しかしその発表直後にリリースされたラストアルバムは本当に本当に素晴らしくて、なんだか誇らしい気持ちにもなった。果てしなく真摯でドラマチックになるまで肥大した(それは憤りや悲しみかもしれない)何かがジリジリと迫りくる曲群。血の通った痺れるラストアルバムだった。素直に大傑作だと思った。

日本武道館で観た彼らのラストライブは、シングル曲を過去へと振り返るセットリストとライブの定番曲などであっさりと締めくくられた。「僕から君へ」以前の曲たちはやはり今のGalileo Galileiに当時のアレンジでそのまま演奏されるのは非常に違和感だった。ただただ 良い曲だな…という振り返りにすぎなかったし、そりゃあ今では演奏しなくなった昔の曲をこのライブが本当に最後と思って聴くだけで特別で、当時の記憶も相まってグッときてしまう場面も多々あった。一番感情が高ぶってコントロールがきかなくなってしまったのはやっぱり「星を落とす」だった。 さあ 星をひとつ盗んでこの街に落っことして  映画みたいに燃やして最初から始めよう  君に笑ってほしい  僕に気づいてほしいよ  僕には聴こえるんだ  すばらしき音楽と涙の落ちる音  Galileo Galileiがやってきた音楽性や存在意義を説明することもできない。他の人がもってるような立派な物語なんてない。純粋な気持ちだけの盲目なファンであった自覚もない。ただの10代に出会った音楽とバンドが、初めて分かり合えた親友のように何からなにまで切り離すことができない。アンコールで「Sea and The Darkness Ⅱ」が武道館に響きわたった。 さぁ 暗闇が忍びよってくる  僕らの影  そして世界の影が  ひとつになった  闇を渡り  投げ出された  突如日差しの下へと  その時きっと  光に眩み  何も見えない  僕のそばにいるかぎり  みえる  Darkness...   それでもいい   それでもいい…   その時彼らが大人びて見えて(それは大人になったということではなく)向こう側にいってしまったんだなと感じた。最後に尾崎兄は「言葉にしたいけど、言葉がない。本当にありがとう。」と。言葉がない って言葉が、このバンドを終わらせるという事実にしっくりきた気がした。最後に武道館で演奏してくれた曲たちは、彼らが見せてくれた勇姿そのものだったように思う。ダブルアンコール最後の曲として演奏された新曲「車輪の軸」ではこのように歌われていた。

キスしてさよならだ  過ぎ去っていく日々に  手をもつ誰かは  君に似ている

ああ、過ぎ去っていった変わらない毎日。くだらない笑い声。見飽きた景色だって未来のことなんてどうだってよかった。信じれるのは自分に似た音楽だけで、それだけは少しのことで感覚的に繋がれた気持ちになれた。おこがましいのは重々承知だけど、ずっと君に似ているってわたしも思ってたんだ。この曲のアウトロだけは本当に名残惜しそうに演奏している彼らがそこには在った。

授業中にノートの隅に書いた歌詞のように、 弾けないギターを掻き鳴らしたように、初めてできた友達のように。そんな存在の音楽に出会えたことを嬉しく思う。Galileo Galilei、今までおつかれさまでした。そして、ありがとう。