日没

東京はクリームソーダの街らしい

Something

恋に落ちる小説を読んだり恋に落ちる映画をみたり、物語の中で恋に落ちている人々に感動するのは簡単なことだった。孤独な二人が惹かれあっていくその存在はまるで夢のように 疑う余地も無く とても美しく見えたからだ。美しいものに向かっていきたい。たとえ終わりがそうでなくても、そういう思いをいつまでも消せないでいる。

結局、それでもいつまでたっても、とにかく変わることを恐れている節がわたしにはある。人前に居るとき「今、らしくないのではないか…調子に乗ってないか…普段のわたしとかけ離れすぎていないか」という意識が頭に 全身にこびりつく。今の状態(自分が思い込んでいるだけの自分の本来の状態)から変わってしまうのが嫌だという、ただの自意識過剰って言っちゃえばそれで終わりな話だけれど。例えば、ニートから週5で働くようになって、そうすると休みの日ができるわけで、とたんに「今日のオフは何しようかな」とか心なしか楽しそうに考えたり「明日からの仕事しんどい」とか愚痴を吐いたりすることだったり。今までおかしかった部分が少し平常に近づいただけで、なにを傲慢で調子に乗っているんだ。本来の自分はこうではないしこうなってはいけない とまで思ってしまう。例えば、何か大きく影響することが少なからずあって自分では意識がないのにそれが意図せず影響していて他人から「なんか最近キャラ変わりました?」と言われたときに、すでに変わってしまっていたことに自分では気づかず、他人からの指摘で初めて変わっていることに気づくのだ。恥ずかしいことだ、もっと言えば恐ろしくもある。例えば、いきなり何も言わず姿を消し連絡がとれなくなった人にどう思われてるか想像するとき。わたしも気づかない変わってしまったわたしに、腹が立つし気持ちが悪い。

何かに縛られて、もう一生誰にも出会えない気がする。今どこにいるんだろう。そんなことをぽやぽやと考えると同時に もうなにも許されないんだな と、漠然と思う。漠然とだから何も意味を持っていない可能性もあるけれど、わたしはそんな意味もないかもしれない意識に支配されつづけて、変わることを今でも拒み続ける。

小説や映画、音楽の中の彼や彼女は、駆けだしているし踊っている。常にではないけど。今まで知らなかった自分になって 踊っている。その姿は自分が現実で感じる 変わりたくない という意識の支配を一瞬で解き放ってしまう。でもそんな魔法は刹那的で、それでまた。それで、君の悲しみも わたしの悲しみも きっと交わらなくて、それが悲しい。いつか、わたしが踊りだすようなことをしても。

(さっき言った 誰にも というのは比喩的な言葉で、誰かという名の君のことである)