日没

東京はクリームソーダの街らしい

カマイユ

昔、通ってた絵画教室。午後5時をすぎると先生が夕飯をつくりだす。夕方、いい匂いが部屋中に広がっていた。できたてをたまにお裾分けしてもらってたのだけど、低学年の子たちは早いうちに帰ってしまっていて描くのが遅いわたしはいつも暗くなるまで残っていた。窓の外が見えなくなる、そのくらいの時間から大人たちがどんどん来て、その中に1人ぽつんといた。かなり大きなキャンバスに絵を書いていたから、嫌でも大人たちに見られて「中学生でたいしたもんだ。」なんてお世辞を背中で聞きながらなんとなく悔しくて泣きそうになる。見られている時に描くのがすごく嫌で、考えることがないのに考えている素振りをしながら手元の絵の具を意味もなく混ぜると、それはいつも曖昧な色になった。本当に愛想のない子どもだったと思う。いつか先生がくれた温かい卵の煮付け。その時も大人の話し声を背中で感じていたけれど聞こえないふりをしながら食べた。味がしなかった。

植物や動物の図鑑を開いたときの、あの埃まみれの棚、真っ黒の服しか着ない先生の、太った犬の濡れた鼻、夕方につくりはじめる夕飯の、大人たちが談笑する飲んだことのないコーヒー。さようならを言うことすら躊躇っていたから時間が過ぎただけで、色を重ねても重ねてもその絵がよくなることなんかなくて、誰か言ってくれればいいのにって思ったけれど、そうだ、わたしは聞こえないふりをするのが上手くなっていた。残っているのは意味もなく混ぜた曖昧な色と、『まぼろし』『ゆくえ』などといった曖昧なタイトルの絵だけだった。

見上げた黄色い壁の階段をあがり、鍵のかかっていない扉の前で、いつもの犬の鳴き声と油絵の具の匂いがする。わたしは溜息をついて、やはり何も言わずに扉を開けてしまうんだ。