日没

東京はクリームソーダの街らしい

記憶

・8月

線路沿いの神社が隠れ家だった。お社の裏の縁側のようなところに腰を下ろすと目の前には線路があって、電車は2.3分おきに通り過ぎた。長いことそこで何をするでもなくぼんやりしていたが、やがて手持ちぶさたになって古本屋で買った江國香織の「なつのひかり」を読んだり、「16時54分のすべて」という曲を聴いたりしていた。2時間ほどそこに居たがその間お参りに来たのは2人だけだった。電車は何本通り過ぎたか憶えていない。時折上のほうからパチッと音がして、地面にポッと叩きつける音だけが響きわたった。何かの実のようだ ということだけが分かり、空はずっと曇っていて、夏とは思えないほどの寒さだった。

“  とじた夏を囲む文庫本

 青春の残り香を吸った

 17才のまどろみの果てには

 嬉しさも悲しさもない  ”

憶えてしまった歌詞、ビニール傘片手に15時24分。

 

・9月

車屋でつまらなそうに働く少女が花に水をあげていた。外は夏だった。8月の日記をひとつも描かなかったことをすごく後悔している、という書き出しでブログを書いていたがそれすら書き終えることができず、ベランダの朝顔は呆気なく枯れた。見たことがある景色が急に音をたてて煌めいたり、見たことがないはずの景色が妙に懐かしく思えたりすることはきっと誰しもあることだって思うんだよ。夜のどこまでも続く地面も、何物かも分からない大きい電波塔も、さっき降った雨で湿ったはずの茂みも。

“  ここは楽園じゃない

 だけど 

 描ける限りの

 夢の中  ”

甘くした海水みたいな味がするサイダーを飲みながら泣いた。誰もいないね って何回でも言いたいよ、信号を待つ君に。

 

・10月

朝起きて電車に乗る。扉のほんの少しの隙間から漏れる強烈な朝日を美しいと思う。線路に反射する光は魚みたいに追いかけてくるから、わたしは、わたしは。

“  秋口の風が愛しいくらい

 そして むなしい

 朝が来て

 おだやかなままでは いられなくなって  ”

遅れる電車。音のない耳。空っぽの切符。

 

・11月

昔々のことだけど、兄ちゃんによく数学を教えてもらってた。わたしの部屋まで呼びよせて隣に座らせて半ば強引にだ。兄ちゃんは数学が得意だったし図を描いたりして教えるのがとても上手かった。力を抜いてスラスラ薄く描く兄ちゃんの字は、なんだかすごく好きだった。たったそんなことが、忘れられないでいるな。

“  遠くなる

 遠くなる

 だけど

 ひきよせる  ”

 

midnight

右手首につくってしまった火傷の痕がなかなか消えない。1ヶ月くらい経っただろうか、治ってもいい頃なのにまだうっすらと残っている。不思議とぼんやり眺めてしまって、頭の中でその点と点を結んでなにかの星座みたいに見えるなぁなんて思ったりして、そうしてるとなかなか消えないこの痕もまぁ悪くないなぁと思えた。この形は何座に似ているんだろう。星座のことは何にも分からないから、勝手に名前をつけようかな。憶えていられるように名前をつけたり言葉を綴ったりすることって自然な行為だと思うけど少し身構える。昔から名前をつけるのがとても苦手だった。そういえば大学に行く途中よく逢う野良猫たちにもいい名前がつけられなくて、いつしか名前をつけるのをやめてしまった。わたしの中ではあの子たちには名前がない。それでもまた会う時まで憶えているよ。そしてきっと、あの猫たちにはたくさんの名前がある。世界が明日終わってもどうでもいいみたいな眼をした君にぴったりな名前が。

7月20日、朝顔の苗を植えた。色違いの5つの朝顔。小学生の時に育てた朝顔は何色だっただろうか。曙、紅、藤娘、残月、雪。ベランダに色とりどりな朝顔が咲き乱れる様子を想像すると少しワクワクする。丁寧に育てたい。

今日は海の日だったらしい。

デイ・ゴ—・バイ

今日が何月何日なのかも分からない。手帳に予定を書き込むこともいつしかしなくなった。ネットで見かけていたとても好きな呟きをする人が居なくなって何ヶ月経ったかも忘れてしまった。坂道の向こうの踏切を越えたところにいるから、傘を持って待っているよ。 青が溶けた水溜まりで足を洗って、突然の風に髪が乱れたって手の中の花が落ちてしまったって気にしない。だって、今が何なのかも分からないんだから。

君が好きな曲をたくさんたくさん聴いた。どれも映画のエンドロールを想像してしまうような曲ばかりだった。どうしたってこの時がずっと続かないってこととか色んな瞬間が積み重なっても変わってしまう気持ちとか、そんな物思いにふけてしまう自分がいていつもほんの少しだけ哀しくなる。音楽を聴いたって写真を撮ったって何百回と気づくこと、それに気づかないふりをして何故ひたすら終わりに向かうのだろう。時間がないし時間がないし時間がない。それでも、「エンドロールには早すぎる」

最近この曲をずっと聴いています。それでは、

 

破れた街

夕方、新宿に向かう。いつもの靴と好きなバンドのTシャツを着て。煙草が充満している喫茶店は天井が低く感じたし、青地のベロアと思っていたソファが実際はなんてことない色のソファで落胆した。頭の後ろから聴こえる心地好い音に耳を澄ませて何かの音に似ていると感じていた。今何かに触れたり見たりすると感じる「あの頃と似ている」という感覚と、子供のころに何かを見つけて感じる「あの時と同じ」という感覚は近いようですごく遠く思える。珈琲豆の焙煎の音は、さざなみと似ていた。あれは確か去年の今くらいに行った鵠沼海岸、その時のさざなみの音。なんだって過ぎ去ったことは忘れた頃に似たような姿で現れる。それでも珈琲豆の焙煎の音がさざなみに聴こえたのは、お店に居る間最初の一回きりだった。同じ気持ちを持ち続けられなかった。また似たような気持ちに出逢うまで、1年、10年。青い看板を背に、日が暮れていく曇天の破れた街を見下ろした。

 

檸檬

髪からは醤油の匂いがして、布団からは焦げた太陽の香りがした。誰かの待っている姿を想像できないのはわたしがずっと待っているからだろうか。1年前に、博物館の隅のソファで聴かせてくれた曲を思い出していた。“埃たまった記憶や思い出と 長く借りっ放しのアルバムやビデオ等” という歌詞が良いと思ったので聴き終わってからその人に ここの歌詞がいいですね と伝えたのを思い出した。他の歌詞も、その人と交わした他の会話もあまり覚えていない。

表現のしようがないくらいなんの変哲もない真っ直ぐに生えた草は、手で揉むとキュウリの匂いがするからキュウリ草というんだと教えてもらった。わたしの親戚は東京だけど山奥の方に住んでいて、絵描きのおばさんのためにおじさんが草や花を摘んできたりする。棒を持ってそこらへんにいる猫(半分飼い猫)を道案内して一緒に裏山を散歩しながら。摘んできた草花は家に帰って瓶に挿して、おばさんに花の名前を伝えるんだけどすぐ忘れてしまうって笑ってた。ね。笑えるくらい、いろんなことを忘れてしまうよ。

貝殻の切手はあと数ヶ月もしたら爽やかに見えるだろう。藍色のシュガーポットやあの娘が鳥と見つめ合ったこと、お父さんはサイダーが苦手だって知らなかったし5円玉に結ばれたリボンがポケットの中で解けてしまって、それからそれから、

もしかしたら明日死んじゃうかも なんて笑いながら。

したためる

f:id:nitibotsu_to:20150613224237j:plain

ふた月ほどブログがあいてしまった。といってもツイッターで毎日どうでもいいことは呟いているのだがひたすら時間がある毎日を送ってそれでも何もなくて、ブログを書こうと思い立っては書けなくて人と会って喋ってはどことなく後ろ向きになるばかりの日々です。

4月5月は何も無かったけれど何をしていたんだろうと少し思い出してみる。海辺や丘や寺に行ったりしたし、音楽も聴いていたし、ライブや映画や展覧会を観に行ったり、たまに料理をしたり。あとはいつも通り喫茶店に2.3時間居座って友人に手紙を書いたり。

今日は10時くらいに起きてシャワーを浴びベランダの植木に水をあげて冷蔵庫に残っていた豚肉を炒めてご飯を食べた。そのあと冬用毛布の暖かい敷き布団のままだったので敷き布団と掛け布団を干してシーツも替えた。寝っ転がると涼しくて一気に夏休みくらいまで吹っ飛ばされた気分だった (あ、もう夏休みはこないんだった。。)夕方、TSUTAYAに行こうと思ったけれどTポイントカードの更新をしていないことに気づきお金も無かったので図書館に行くことにした。Sonic YouthPavementZAZEN BOYSがあったのでその3枚と寺山修司の詩集を2冊借りることに。ソニックユースのジャケット基本すごく好みなんですけど今日借りた『Murray Street』のジャケも最高ですね。まだ聴いてないけどブックオフとかで安かったら買って飾りたいなぁと思いました。図書館の帰りに少し散歩したら紫陽花やヒナゲシやアベリアの花が咲いたり枯れかかったりしていて美しかった。自然と歩幅が緩やかになったし耳にしていたイヤホンをなんだか外したくなるような気分にもなった。1時間くらい散歩してコンビニで紙パックのグレープフルーツジュースを買って帰った。夕飯を食べ終わった後、ベボベの日比谷ノンフィクションの中継をニコ生で途中から見ていたら中盤に「ホワイトワイライト」と「ラブ&ポップ」を演奏していて、なんだか感極まってしまった…『(WHAT IS THE) LOVE & POP?』は高1くらいにリアルタイムですごく聴いていたし、久しぶりにしかも不意に聴いたラブ&ポップはとてもくるものがあった。余韻に浸りながら珈琲を飲む。

わたしの最近の1日はだいたいこんな感じだし明日もこんな感じなんだと思う。暗くはないけど明るくもないです。あぁ、久しぶりのブログが心底どうでもいいもので自分でも驚いているけど、今回はこんなんで終わります。もっと言葉を掬いあげるようなブログはまた近いうちに書きます。日々何も無いけれど 書きたいこと、なくはないはずなので。

 

youth

昼間の陽差しがまだ仄かに残っているような街灯を、雨粒ごしのレンズで眺める。その夜に拾った椿の花を左の掌にのせて帰宅した。花弁の裏には一粒の雨露があり、零れないように消えないようにとするわたしの手は少し震えていたかもしれない。もう死んだ花の上に居座るその雫はとても凛としていたけれど、それでも一晩たって見てみると綺麗に消えてしまっていた。泣きたくても泣けない時のことを、わたしは思い出していた。

「ここにはなんでもある」と空を仰いで言った彼女の胸の音を想像してみる。まだ冷える春の夜に薄手のマフラーを巻きながら寄り添う彼と、ポケットに手を入れたままの彼女。気づけばずっとおなじ曲を聴いていた。その曲はカタカナの憶えにくいタイトルで、味気ないギターのアルペジオが鳴り続けている曲で、別れの曲で、風を感じる曲で、

やっぱり別れの曲だった。