日没

東京はクリームソーダの街らしい

僕は誰かに電話せずにはいられなくて だから君を選んだんだ

いつのまにか心にポッカリ穴が開いてしまったような気分になっていた。どこへ向かえばいいのか、ここが何処なのかも、分かろうとしないで身を潜めている。何かに影響されたり自分の中の何かを突き動かすものに触れるのが恐い。会わない間に変わるものと、会わないことで変わらないものがある。タイムラインを遡ってボタンを押すと「そのツイートは削除されました。」と表示される。

LA LA LANDの上映が終わり 映画館を出て少し暗い気持ちになっていると、同じく見終わったカップルであろう2人が『Another Days Of Sun』のあのフレーズを笑顔で楽しそうに鼻歌し合っていた。こういう人たちには 全ての夢を追う人たちへの応援歌 とか 勇気をもらえるとかなんとか そういう気持ちでいっぱいなんだろうなと考えると、なんかいろいろと死にたくなってしまった。この人生賛歌の一員にいつかわたしも入れる(入ってしまう)のだろうか と、今でも蚊帳の外にいる気分だ。劇中セブスがミアに言った「君の部屋からみえる世界の話だろ」という台詞が忘れられなくて、憶えている。

特別な場所が、誰かのものになるのを拒むくらい、特別な場所だったと気づいた。共有はいらないんだ。

学生時代に戻ってピアノが弾ける人間だったなら。誰もいない校舎の 音楽室とか体育館とかで、ローファーを脱いで薄い靴下ごしにペダルが冷たくて、鍵盤のもどる音まで耳に入ってきて自分にしか聞こえないくらいの声が、誰もいない放課後の壁や床に響き渡る。窓からは光が差し込んでいるはず。

少し恥ずかしそうに でも何でもないことのように話し出す君を、羨ましく そして自分がひどく惨めに思えていた。自分はなぜこんなにも何もないのか。しかし誰のことも責められないのも分かっていて《そうやって君の青春群像劇は次々と生まれるんだね》と 心の中で呟いた。

誰かの特に大したことのない生活の片鱗が垣間見える瞬間が好きだ。たとえば冷蔵庫からタッパーに入った残り物の福神漬けをとりだして食べてるのを横目で見たりとか。そこそこ売れてるバンドマンが「自転車で生活してると桜の季節結構良い」と突然呟いてるのを見たりとか。休憩時間にいつも行く公園で会ったおじさんのなんでもない話を人から聞いたときとか。

 

例えば、誰かが涙しながら それでも話そうとしているときに 本当は言ってあげたかった、分かってるよって。もう喋らなくてもいいよって。(言えなかったわけだけれど)

いつになったらわたしは、わたしは。

 

(数ヶ月前、雑に下書きだけした言葉たち)

 

( 2016 is ... )

2016年新譜以外のもので好んで聴いていた楽曲 アルバムをまとめました。他にも忘れているだけでまだまだありそうだけれど、それはまた思い出した時に聴ければいい。2017年はどんな音楽を聴いて生きていくのだろう。そんなに変わらないんだろうな。

 

Syd Matters  “Obstacles”

この曲を初めて聴いたときから、それは今でも、どこから溢れてくるんだろうと不思議なくらいだ。過去の倦怠感や数年前の歯がゆさや 知ることの無かった想いや景色 知ってしまった気持ちも場所も それにあの時の煌めきとか…そういう言葉にできない仕舞い込んでいたものたちがまるで時が巻き戻るみたいに淡々と蘇ってくる。淡々と、すべて。Obstaclesは「ライフ イズ ストレンジ」というゲームで出会いました。こんな臭いこと言って気持ち悪いですが、このライフ イズ ストレンジという作品もこの曲も、本当にかけがえのない出会いだったなぁ。

 

Taiko Super Kicks  “低い午後”

「この曲似合うと思う」って人に言われて聴いてみた曲が、こんなにもしっくりと心を掴まれたのは初めてだったかもしれない。予期せずどこからともなくスルリと現れて 染みこんできて、なんだか特別な1曲になってしまった。Taiko Super KicksのVo.伊藤暁里さんは「気怠さ」に惹かれて曲作りを行うようになったきっかけは村上龍の「限りなく透明に近いブルー」を読んで どんよりと倦怠感に包まれているその感じを音に出したかった と言っていた記事を見て、すごく親近感が湧いたし 低い午後を聴いて直感で好きだと感じたのは間違いじゃなかったなと思った。

 

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The Radio Dept. 『Clinging To A Scheme

少し前から数曲聴いていて好きだったのですが ふとこのアルバムを初めて聴きまして それはもう一瞬で恋に落ちるような気持ちになってしまったわけです。全曲いいし他のアルバムも素晴らしいです。多分2月はレディオデプトしか聴いてなかったような気がする。特に好きなのが5〜7曲目の流れ(Memory Lossがどうしようもなく好き)で、もう至高としか言いようがありません。この焦がれるような淡く煙い温度感は、わたしにとって変わらないものを思わせるのでした。 

 

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スーパーカー 『Jump Up』

なぜ今更これかというと、秋頃ラブサマちゃんのとあるインタビュー記事を読んでいたらスーパーカーを無性に聴きたくなってしまい聴き始めたが最後 何かに取り憑かれたようにスーパーカーしか聴けない体になってしまったのです。スリーアウトチェンジは最高でしかないしFuturamaもHIGHVISIONも好きで、でも1番好きなアルバムはANSWERで。わたしはスーパーカー自体後追いなのでJump Upを普通に良いという認識でしか聴いたことがなかったのが、何故だかJump Upが1番好きなアルバムなんじゃないかと思うくらいすごく響いてきて狂ったように聴いていました。“Love Forever” 《あるんだろう 伝えたい感情には 笑えない背景が》詞も音もどういうわけか泣けて泣けてしょうがないし “Low-Down (Live Scene)” がかっこよすぎて頭痺れてくるし “Daydreamer” も……今更何を言ってんだコイツって話ですが、このアルバム めちゃくちゃ名盤です…ね。。

 

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キセル 『窓に地球』

ほとんど聴いたことがないキセルなのですがTwitterで “柔らかな丘” をたまたま聴いてアルバムを借りました。ヴォーカルの寂しげでいて無邪気な声や 古めかしいものを見ているような でもどこか郷愁感を覚えたり。このアルバムが発売された当時のレビューでは「金星にある定食屋で流れる音楽」と形容されてたそうです。美しいんだけど美しすぎて不思議と虚無的なようにも感じます。その中でも7曲目に収録されている “方舟” という曲、打ち抜かれました。《古いデパートの屋上で 君とみる街  水たまり飛び越えたら 海だった  寺の前で笑ったら 坂を上がろう  君の本当に触ったら まだだった  見慣れたドア開いたら 月だった》…君の本当に触ったらまだだった……意味の理解とか感情の高揚とかそういうの飛び越えて、心がおかしくなるかと思いました。

 

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泉まくら 『マイルーム・マイステージ』

泉まくらさんのどこが好きかと言われたら難しいんですが、“candle” “春に” “幻” “通学路” など好きな曲は中毒になるくらいリピートで聴いていました。それでアルバムを借りて聴いてみようと外を歩きながらiPodの再生ボタンを押すと《誰の背中も相槌もない なんて素晴らしいこのステージ  マイルーム・マイステージ》と、イヤホンから聞こえてきた彼女の声はどこか諦めていてどこか遠くを見ていて なのに震えるくらい求めている。ただただ歩くわたしの目の前の世界と それは全てがリンクした気がしたんです。

 

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Peter Joseph Head 『Minnade』

たしかココナッツディスク池袋店さんの呟きで気になって聴いてみたのがきっかけでした。どこの国の音楽かも分からない、何故か日本語で歌う 陽気でへなへなで楽しそうで切実な唄たち。“Boku Ni Atete 僕に宛てて” という曲は、小田和正ばりの普遍的で美しいピアノにのせて《手紙はいいぞ 手紙だからね  遠く離れた君の便りが 僕の住む場所に運ばれてくる  そしたらその時  僕のところに 君は確かに 現れたんだ  それは手紙》と それは隣で誰かに話しかけるように 紙にペンで綴るように 確かに届いてくる。これは言葉通り、感動してしまった。

 

2016 is ...

今更ながら2016年リリースの5枚を選んでみました。面白みはないと思いますが、なんだかこの5枚は本当に心に残ったというか それぞれが特別な1枚として刻まれた感が強く自分にはあり、書き留めておきました。

 

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Galileo Galilei 『Sea and The Darkness

活動終了とともに発表された4thにしてラストアルバム。ガリレオガリレイにはいろんな想いがありすぎてうまく言葉でなんてまとめられませんが、特別なバンドの特別なアルバムでした。彼らの憤りや悲しみや愛がジリジリと迫ってくる曲群、今までで一番真摯でドラマチックで血の通った痺れるラストアルバムで…誇らしいくらい大傑作!“ゴースト” “鳥と鳥” “青い血” “Sea and The Darkness Ⅱ” などお気に入りの曲はいっぱいあるけれど “恋の寿命” の絶妙な抜け感とエモーショナルなポップさはこのアルバムで際立っていて何回聴いてもグッときてしまう。。(とにかくガリレオへの思いの丈はこちらに綴ってあるのでもしよければ読んでください) 

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American Football 『American Football (LP2)』

気づいたら冬になって、あの家から見える外の世界の空気は澄みきっていた。風の揺らぎや窓からの光りが落ちていく瞬間まで隅々までいきわたっている。もはや言葉なんて必要ないんじゃないかとさえ思ってしまうどこまでも凜として優しいメロディが「お前の居場所はここじゃない」って言ってくる。多分これなんだろうなぁ。。  

 

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サニーデイ・サービス 『DANCE TO YOU』

八月の終わりにこのアルバムを聴いた衝撃、とにかく凄まじかった。このアルバムから終始漂う虚しさとそれゆえの幻影はなんなのか。隙が無いのに手の内から恐いくらいきらきらと滑り落ちてゆく…。何年後かにこのアルバムを聴いたらその切なさと儚さに殺されそうです。“パンチドランク・ラブソング” から “苺畑でつかまえて” “セツナ” への緩急のリズムが心地よく “桜 super love” の《きみがいないことは きみがいることだな》で膝から崩れ落ち…そしてラスト《九月の海へ行こう バイバイ》という詞が加速していきいつの間にか消えてしまうのです。めちゃくちゃ聴いたのですが非常に危険なアルバムなので今後封印しかねない、そんな一枚でした。(ちなみに感化されすぎて九月の海に行きました)

 

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ラブリーサマーちゃん 『LSC』

“青い瞬きの途中で” を初めて聴いた時に感じた、胸が痛むくらい 目が眩むくらいな青さ。名前は知らない気になるあの子のイヤホンから流れる音楽みたいな 放課後意味もなく一人で彷徨った路のような 信じたいものとか諦めたこととか…それでも求める何かとか。久しぶりにスピーカーの前で体育座りをして歌詞カードを見ながら聴いたり、ギターを引っぱり出して耳コピしたり、深夜のラジオの弾き語りで少し泣いたりした。“僕らなら”という曲で《見に行こう 全て この船が終わる日も  君となら良いや 君と居ることを決めた  君となら  僕らなら》という歌詞がある。本当にエモい、そしてラブサマちゃんはオルタナティヴ、つまり 最高だ。。。

 

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宇多田ヒカル 『Fantôme』

個人的な感想でしかないですが、とにかく美しい曲や名曲のオンパレードで、アルバムを聴いている満足感があって、制御されていてきっちりしている。なのに鮮やかでありながら色合いは無に近い。想いや音や場所が、いろんなものを超越している気がする。1曲目 “道” から “俺の彼女”、これだけでぶったまげてしまうくらいポップでクールでエモーショナル。“二時間だけのバカンス”《今日は授業サボって ふたりきりで公園歩こう》、“忘却”《いつか死ぬ時 手ぶらがbest》、そして最後に《開いたばかりの花が散るのを 見ていた木立の遣る瀬無きかな》とこのアルバムから絶ったように収録されている “桜流し” で独特な匂いと《Everybody finds love  in the end》を まるで祈りのように焼き付けられてしまう。

 

luminescence

暇なのはわたしだけで青さについて語り合う人は本当は忙しい。よく知らない人とどうでもいい約束をする前に返事がこなくなる。夜中にする意味のないやりとりは突然既読がつかなくなる。友人と友人が知らぬ間に仲良くなっていて休日にパン屋の前で笑い合う写真をネットで見る。貸したCDは聴いてもらえない。久しぶりに連絡が来た友人に舞い上がって手紙を書いたのに住所が分からなくてだせない。本当に連絡をとりたい人はもう半年くらい音沙汰ないのに懲りずにわたしは写真やら言葉を送りつけている。暖まるためにいつの間にか冷えて風邪をひいた。誰かに心配されてもその優しさが鬱陶しい。直接触れられるのが苦手で、それなのに離れない。

苦手な曲がある。寂しさとかぬくもりとか そんな言葉じゃ足りない本当(それは愛かもしれない)が作りだす希望は正しすぎて、その正しさは直接、触れてくる。静かだけど穏やかじゃないし 日向なようで乾いてない。わたしはまだそういう場所を知りたくないのだ。静かなら穏やかで、日向なら乾いててほしい。漠然とした説明がつかないような風景も そこは懐かしくてここではない何処かであってほしい。あとこれはただの戯言だから正しくないことを言うけど、本当の意味で君は死んでもいいと思っていて わたしはまだ死にたくないんだと思う。説明のつく過去も永遠みたいな希望もいつか死ぬという正しさも、まだまだ苦手だ。

会ったことのない人と 会ったせいで 会えなくなるのは、とても切ない。あの子たちは薄っぺらい人間関係と会話が心地よいと言う。分かりたくない。だから夢の中でも結局誰にもなれないでわたしはわたしで泣いていた。何も発さないで生きていても言葉が届くし、メロディは優しく聴こえてしまう。好きだった音源が削除されていて あんなに好きだった歌が思い出せないなんてわたしは馬鹿みたいだ。馬鹿みたいだ。誰かいるかなと思って飴を買ったけど、誰もいなかった。

 

僕ら

黄色い葉の光がまばゆい。あの時の大学に向かう道を 落ち葉を踏みながら歩いた道を 時間を 憂鬱な気持ちを思い出す、できるだけ静かに。白いふわふわした虫が漂っていて、光みたいだ。

昼間、窓からの陽射しだけで部屋の中が一気に灯り そして暗くなる様子をただ眺めていた。見つめているのに目を閉じたような感覚があった。時みたいだ。

遠くに行きたいっていうのは遠くに遊びに行って満足して帰ってくることじゃない、遠くに行くってことなんだよ。君と2人、カラオケに行ったりそこで踊ったり レンタルビデオを選びあったり 居酒屋で未来についてどうでもよく話したり スケートリンクで転んだり 言葉を濁して笑ったり、何もできなかった。遠くに行きたい目をしてる。遠い目。

なぜだろう、喉や鼻の奥が苦しくて生きてる心地がしなかった あの泳ぎ疲れた記憶は今思えば眩しかったのに。遠くに行っても、そこでまた遠い目をするのだろうか。

あの日の行きの電車、知らない駅の次はまた知らない駅で その次もそうだった。気づかないうちに僕らは川を渡る。車窓から見える景色をぼんやり眺めていると

「いい高さだね」そう隣の人が言った。

その言葉は美しかった。知らない街の色、乾いた空気、あと何駅か先の駅。その時気づいた、

街並みは喋らない。 

 

君に似ている

自分にとってこの音楽が、彼らが、どんな存在だったのか。たとえ正しくなくても言葉にしたくて 考えてはいるのだけど、考えれば考えるほど分からなくなる。活動終了の事実と、2016年10月11日の武道館でのラストライブを観たあとで、自分とGalileo Galileiとはなんだったのかを考えたとき浮かんでくる言葉は全部ニセモノのように感じて苦しい。どの言葉もホンモノの気持ちに辿り着かないような感覚で…(別に自分の想いが他のリスナーと違って特別で正しいとかが言いたいのでは全くなくて)特別なバンドだったっていうのはきっと誰かもそうで、いろんな感情が渦巻いているのもそうで、同じような思い出や記憶を持っていることもそうで、それはすごくすごく尊い。喪失でも、青春でも、感謝でも、尊敬でも、何かが埋まらない。きっと、きっとだけど、10代の自分が普通に生きているうえで普通な感情がたくさんたくさんあって、それと一緒の場所にGalileo Galileiも位置づけられてしまった(自分が位置づけたというより後々考えると自然に位置づいてしまうというか)そんな感じなのかな。

出会いは例のごとくSCHOOL OF LOCK!というラジオ番組。ヘビーリスナーだったわたしは、閃光ライオットで同世代からでてきた彼らの音楽と姿には感動と共鳴と嫉妬を思わずにはいられなかった。ラジオから流れてきた「ハローグッバイ当時の単細胞のわたしでもあのイントロ含めサウンドは非常に心地よく響き、それでいて  歩くだけ歩いて疲れて  渡り鳥は飛んでゆくよ  朝も一緒に連れていけよ  こんなに傷つくのなら 「ほら、雨が止まないね」 そんなどうでもいい事話してよ  という気怠げでいながらなにかを求めている歌詞に胸を打たれないわけがなかった。『雨のちガリレオはCDケースが壊れるまで聴きまくっていたし、いきなりのCMタイアップやメジャーデビューに戸惑いながら聴いたハマナスの花もすごく思い出がある。「僕から君へ」が発売されたときなんてもろ大学受験の真っ只中だったし、そういえばその頃初めて1人で行ったライブもGalileo Galileiだった。ドキドキしながら物販の列に並んで、タオルとか缶バッジを買って、荷物とかってどうするんだろうっておどおどしてる間にロッカーは埋まってしまって、荷物と真冬のコートを着たままライブ会場に入った。前の方で観たくて揉みくちゃにされてそれでもあの時の高揚感は忘れられない。たしか汗をかきすぎてその翌日は風邪をひいてしまったんだ。高校生活に馴染めていなかったわたしは、休み時間になんとなく固まる数人の友達とも何ひとつ心が通い合っていないように感じて、眠いふりをしてイヤホンを耳にして机に突っ伏したり、放課後の部活で美術室に行っても非常階段から夕日をながめたり、自転車を漕ぎまっすぐ家に帰って夜はラジオを聞いていろんな音楽に触れ始めていた。当時の尾崎兄のブログで知って聴き始めたSigur RosRadioheadColdplayくるりthe pillowsは 今でも本当に好きで聴いているバンドばかりだ。よく知らない同級生がGalileo Galileiを知っていて(大きく取り上げられたデビュー曲や、アニメのタイアップ曲で)好きだと言っていても当時わたしは「お前らの引っかかった表面的な好きとわたしのは全然違うからな」と心の中で思っているような非常に痛い奴だった。でも多分、本当にそのくらいシンパシーを感じつつ影響を受けまくっていた存在だったからそんな風に思ってしまったんだと思う。

そしてGalileo GalileiからPORTALが生みだされ、わたしはこの音楽性や世界観に言葉通り埋没していった。こんなにも美しく鋭くて、それなのに儚げで無邪気な音楽に対する衝撃と、初めて出会ったとは思えないほど自然に耳に馴染みその景色に想いを馳せた。それがGalileo Galileiから鳴らされていることにより強く特別な感情が芽生えてしまったのかもしれない。このアルバムが当時の海外インディロック、エレクトロ・ドリームポップ、チルウェイブを色濃く影響していることからわたしも当然のごとく海外のインディロックバンドを聴くようになっていった。Bombay Bicycle Club、Passion Pit、The Morning Benders、Kyte、The Pains Of Being Pure At Heart、Two Door Cinema Club、The Drums、FoalsPhoenix、などなどあげればキリが無いけれど、それらは今のわたしの音楽嗜好の指針になっているんじゃないかとさえ思う。しかしGalileo Galileiが作り出すメロディの素晴らしさはインディ時代から変わらなくて、なによりやはり尾崎兄が描く詞の世界にわたしは共感と嫉妬を常に抱いていた。さよならフロンティア 錆びた青空は明け方過ぎたら寒くなって  パーカー羽織った  のやるせなさにドラマを感じていたし  胸にしまった何かを取り出しては思い出せる  にふわふわ気怠く過ぎる18才のわたしは信頼と希望をよせていた。「Imaginary Friends」「Good Shoes」「スワン」「くじらの骨」、全ての曲にそれぞれ思い入れがある。「星を落とす」 映画みたいに燃やして最初から始めよう  あぁ、なんてずるい歌詞なんだ…。シューゲイザーのつよい音色も白昼夢なコーラスも切実な言葉も、すべてを持ってかれてしまう。まさかこの曲が最後までライブの定番曲になるなんて(わたしが好きな曲だけに)夢にも思ってなかったけど、そのくらい特別好きな曲だ。  …本当にこのPORTALというアルバムがつくりだす世界観に想いを馳せ、今聴いても胸を震わせる。そんなときにメンバー2人が脱退し、バンドは3人になった。正直このPORTALが素晴らしい作品だっただけにショックだった。しかしメンバー脱退後その年に同じく発売されたミニアルバム『Baby, It's Cold Outside』全体に漂う無力感、前作から引き継がれた海外インディの音色に生々しいバンドサウンドとエレクトロサウンドの融合。これは3rdアルバム『ALARMS』で見事なポップ作品に花開いたと思う。わたしはますますGalileo Galileiに夢中になっていた。世の中の評価に違和感を感じたり、ライブに行くとやるせない気持ちになることも多々あった。彼らのもがき苦しみながらも音楽をする姿は痛いほど分かった。それでも不安という期待を裏切らず、ずっと彼らの音楽は居場所の分からないわたしの中心に重なっていたのだろう。「Birthday」の歌詞を借りるならば  とりかこむ自由が僕を脅かして  泣いてみたり笑ったりしていた  …廻り続けている  砂時計をどうか  止められたらって  思うくらい  思うくらいだよ  …愛を知る頃には戸惑っていた  いったい僕は何になるんだろう?  それは本当に時の流れを感じることだし、変わっていくことを感じるし、変わらないことを感じる。

いったい僕は何になるんだろう という投げかけをした彼らはそれからも足を止めることはなかった。わたしは変わらず彼らの活動を楽しみにしていたし、新曲がでれば一喜一憂していた。そして4thアルバム『Sea and The Darknessの発売とそれに伴うツアーをもってGalileo Galileiを終了することが発表された。わたしは言葉がでなかった。どうして、嫌だ、納得できない、それでもいい…そんな言葉もでないで、思うのは ただただ特別なバンドが終わる という事実だけで虚しかった。しかしその発表直後にリリースされたラストアルバムは本当に本当に素晴らしくて、なんだか誇らしい気持ちにもなった。果てしなく真摯でドラマチックになるまで肥大した(それは憤りや悲しみかもしれない)何かがジリジリと迫りくる曲群。血の通った痺れるラストアルバムだった。素直に大傑作だと思った。

日本武道館で観た彼らのラストライブは、シングル曲を過去へと振り返るセットリストとライブの定番曲などであっさりと締めくくられた。「僕から君へ」以前の曲たちはやはり今のGalileo Galileiに当時のアレンジでそのまま演奏されるのは非常に違和感だった。ただただ 良い曲だな…という振り返りにすぎなかったし、そりゃあ今では演奏しなくなった昔の曲をこのライブが本当に最後と思って聴くだけで特別で、当時の記憶も相まってグッときてしまう場面も多々あった。一番感情が高ぶってコントロールがきかなくなってしまったのはやっぱり「星を落とす」だった。 さあ 星をひとつ盗んでこの街に落っことして  映画みたいに燃やして最初から始めよう  君に笑ってほしい  僕に気づいてほしいよ  僕には聴こえるんだ  すばらしき音楽と涙の落ちる音  Galileo Galileiがやってきた音楽性や存在意義を説明することもできない。他の人がもってるような立派な物語なんてない。純粋な気持ちだけの盲目なファンであった自覚もない。ただの10代に出会った音楽とバンドが、初めて分かり合えた親友のように何からなにまで切り離すことができない。アンコールで「Sea and The Darkness Ⅱ」が武道館に響きわたった。 さぁ 暗闇が忍びよってくる  僕らの影  そして世界の影が  ひとつになった  闇を渡り  投げ出された  突如日差しの下へと  その時きっと  光に眩み  何も見えない  僕のそばにいるかぎり  みえる  Darkness...   それでもいい   それでもいい…   その時彼らが大人びて見えて(それは大人になったということではなく)向こう側にいってしまったんだなと感じた。最後に尾崎兄は「言葉にしたいけど、言葉がない。本当にありがとう。」と。言葉がない って言葉が、このバンドを終わらせるという事実にしっくりきた気がした。最後に武道館で演奏してくれた曲たちは、彼らが見せてくれた勇姿そのものだったように思う。ダブルアンコール最後の曲として演奏された新曲「車輪の軸」ではこのように歌われていた。

キスしてさよならだ  過ぎ去っていく日々に  手をもつ誰かは  君に似ている

ああ、過ぎ去っていった変わらない毎日。くだらない笑い声。見飽きた景色だって未来のことなんてどうだってよかった。信じれるのは自分に似た音楽だけで、それだけは少しのことで感覚的に繋がれた気持ちになれた。おこがましいのは重々承知だけど、ずっと君に似ているってわたしも思ってたんだ。この曲のアウトロだけは本当に名残惜しそうに演奏している彼らがそこには在った。

授業中にノートの隅に書いた歌詞のように、 弾けないギターを掻き鳴らしたように、初めてできた友達のように。そんな存在の音楽に出会えたことを嬉しく思う。Galileo Galilei、今までおつかれさまでした。そして、ありがとう。

 

 

消えない程度に daydreaming

 

どこかの国の男の子が、道路にしゃがみこんで路地の先を見つめている。歩いているわたしの角度からようやく路地の先が見えるかというときに 猫のしっぽだけが塀の向こうに消えていくのが分かった。彼は穏やかなスピードで体を起こし、少しだけわたしに目配せをしたようにも思えたがすぐに向かう先へと歩いていった。わたしは足を止め、その空っぽの路地を見つめていた。

 

未だ見ぬ明日や 会ったことのない誰かに思いを馳せるのに、そんな明日が来た試しもなければそんな明日が来ても気づかないふりをするだろう。わたしはもう二度と会えない人に「じゃあまたどこかで。」と言ったりしてしまうような奴だからだ。

 

白い帽子を被った子どもらは光の中から影をつくり現れた。次々にわたしを通り越していって、不思議と耳が塞がり目がくらんだ。午後3時過ぎの街は、失うものも見えなくなるくらい眩しかった。夏は突然に終わる。それでも、いつだって写真の中は静かだった。

 

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