日没

東京はクリームソーダの街らしい

Mrs. Summer

今日で8月が終わる。今年はとても早かったなと、素直にそう思った。わたしが家を離れているちょっとした間に東京はもう秋みたいになっていたんだ。こんな風に一瞬の隙をついて弱さをあばいたりして、街は簡単に変わる。

 夏休みという言葉の青春感を今になって噛みしめている。卒業してからのこと何も決まってないし何も考えていないけれど、今のところ学生をまたやるという可能性はゼロに等しいから、今日で学生最後の夏休みも終わったんだ。そう考えると寂しくもあり、なんというか…青春って…。早く婆さんになって振り返りたいな。「これはこれでワシの青春じゃった」って言っててほしいと切に願っている。。

 

夏休み前半は人の猫のお世話をしたり、『オルタナティブ日暮里』展を見に行ったり、映画『her/世界でひとつの彼女』を観に行ったり、ロッキンに行ったり、映画『思い出のマーニー』を観に行ったり、美術館行ったり、神保町の喫茶店をはしごしたり、ミツメのインストアライブを見に行ったり、CD買って聴いたり、本買ってたまに読んだり、バイトしたりしていた。her/世界でひとつの彼女』は苦しくなる話だった気がする。最後のほうに主人公がベッドで横たわって窓から射し込む光で煌めいて舞い上がる埃を見つめているシーン、また何度でも観たいな。スピッツで「サンシャイン」という曲がわたしはめちゃくちゃ好きなのですが “よみがえる埃の粒たちを 動かずに見ていたい” って歌詞が脳裏に浮かんだよ。ロッキンは初めて行ってみて、やはり予想通りしんどかった。でもシャムキャッツが「渚」をやってくれたときに「確実にわたしの夏始まったなぁ」って思いました。渚よすぎる。『思い出のマーニー』は正直もう1回観たいくらい好きだった。ミツメは今年に入ってから知ったのにもうめっちゃ聴いてるしほんと好きだな。だからアコースティックだったけど初めてライブみれて嬉しかったなぁ。

夏休み後半は家族旅行で岐阜に行ったり、大学の人と鎌倉に行ったり、花火みたり、恵比寿リキッドルームAPOGEEgroup_inouのライブを見に行ったり、2泊3日で高知へ旅に行ったり、CD買って聴いたり、本買ってたまに読んだり、バイトしたり、珈琲飲んだりかき氷食べたりしていた。自分の意志で行かない旅行だったりはとにかく好き勝手に写真を撮るという楽しみしかないので家族旅行はそんな感じだった。ずっと雨が降っていたのであまり思うようにはいかなかったけど…。大学の友だちと遊びに行った鎌倉はとても楽しかったし良い思い出になった(本当に言葉通りです)。そしてイノウのライブはやっぱりはちゃめちゃかっこいいですね、アポジーも新譜の曲すごいよかったし。で、つい最近高知へ行ってました。この旅はいろいろあったはずのに何も無かったようにも感じて、とても困っている。。まぁこれから撮ってきた写真でも見てみようかなってとこです。

CDは新譜でいうとLOSTAGEの『Guitar』APOGEEの『Out Of Blue』阿部芙蓉美の『ABEFUYUMI EP』syrup16gの『Hurt』などを買った。旧譜でいうとCorneliusの『Point』『Sensuous』entの『Welcome Stranger』くるりの『図鑑』Craft Spellsの『Nausea』などを買った。そういえば洋楽は最近買ってないな…。でも他にもいろいろ人に借りたりしていて、ひとつひとつをちゃんと聴けていない感がある。

 

いつもしないこんなクソつまんないまとめみたいなブログを書いているのは、まとめないと全部忘れてしまいそうだったから。行った場所も、観たものも、買ったものも、聴いた音楽も。なにもかも曖昧になってしまいそうで恐かったから。他にももっと抜け落ちててすでに忘れていることはいっぱいあるんだろうけどもうしょうがない。しょうがないことだって、ある。

 

あとひとつ曖昧にしたくないことがあるんだけど、いくら楽しくてもお金を使って行ったことがないところに行って思い出を作っても、自分の部屋で好きなことをする時間が完全に無くなるのはダメなんだよ。ダメなんだ…。。あとね〜 くるりの『言葉にならない、笑顔を見せてくれよ』ってアルバムは最高だよ、そう思わないか。それじゃあ、Mrs. Summer 。

 

fade out...

古本市で偶然見つけて、あの子にあげようと思って買った薄紫色の本、未だ渡せてなくて。渡せないまま夏休みになった。その本はとても古くて、買った時にはもうだいぶ色褪せていて表紙が薄紫色からさらに薄水色のような、薄黄色のような肌地を見せていた。買ってから3週間くらいずっと部屋の片隅に置いてあるのだけれど、その表紙を見るたび今もなおどんどん色褪せているんだという輝きと恐怖を感じずにはいられない。空気に触れているということ…時が流れているということ…きっとそれだけじゃない何かが、この薄紫色を褪せさせているのだと、直感的にそう思ってしまった。もっと色褪せたら、もしかしたら今より美しくなるかもという望みも微かにあるけれど、できるだけ早く渡した方がその子の中での価値がある気もするから、今度いい雰囲気の喫茶店にお茶でも誘おう。そこで「梅雨って明けたの?」なんて言って笑われたりしながら、わたしは薄紫色の本を差し出すのだ。多分その日はよく晴れた暑い夏の日で、夕立がくるよ。分かっていても、また傘を忘れてしまうんだろうな。

 

幸せになりたいなんて思うこと、あまり無い。完全に無いわけじゃないけれど。何かを創ろうとする時アイディアを考えても考えても自分の中からは何もでてこないみたいに、水中でもがいてずっと空振りしてるようになるし、周りからもそう見えてしまうんだろうなと。失望するだけな気がして、怖い。

そして周りのことを考える時に、絶対に自分のことも考えることになるんだけど、“自分とは一体何なのか”っていう永遠の問いと、“自分はただの自分でしかない”っていう呪縛の狭間で揺さぶられて身動きがとれなくなるよ。

何事も比べたくない。誰かに自分を認められるのも、誰かを魅力的に思うのも…なにもかも結局は比べることから逃げられずに支配される。。正論を言われても、弱いから戦えない。臆病だから頼れない。でも人間は1人だと生きていけない生き物だからね。。わたしって超人間だぁ。

 

「映画みたいに燃やして最初から始めよう」

言葉はいらないから海へ行くのさ

同じ景色だったり同じモノを見ているはずなのに、映しとった写真とか、感覚的に感じたことが違うっていうのは本当なんなんだろう。どこかの誰かや何かの唄では、その時それぞれ何を感じていたって同じ夕日を見ていたことに意味がある、みたいなことを言っていた気がするけど、本当にそうかな。それって本当に意味あるのかな。まぁそりゃあ、みんなバラバラだし、人ってそういうもんって分かりきってるし(そこを面白がれる人はいろいろ得してるし凄いと思うけど)そのことを思い込ませてるのがどうしても抜けない部分が自分にはあって。だからやっぱあからさまに違う見え方した写真とか言葉とか見ると少し「ウッ」ってなってしまう。なんだろうな…別に必要以上に嫌な感情が芽生えるというより…違和感だけが残って、何かその景色だったりその人だったりもしくは自分だったりを疑ってしまう。多分その時に自分を疑ったとしても、最終的に自分が折れることはほぼほぼ無いんだけど。。でも疑って変に落ち込んで、ツラくなったりする。無駄なことばっかに体力使ってる気がするよ。これが生きるってこと?着地点が見えてるのに横道に逸れたフリをして遠回りして、ゴールかと思ったら結局はさっきまで居た場所に帰ってくるんだ。堂々巡り。

 

全くたいしたコトじゃないけど絶対にどこかに書き記しておこうと思ってた忘れたくないことを、結局書き記さなかったんだけどしばらく忘れていたのに今思い出せて、やっぱり書き記したくなったから書こうと思う。

この前大学からの最寄り駅までの道を、わたしはいつも通りできるだけ同じ授業終わりの学生が通らない裏道を少し遠回りして帰っていたのです。途中住宅街を左に曲がって右に曲がってまた左に曲がってまた右に曲がって小さな橋を渡るっていうルートがあるんだけど、とある家の側面と路との間に、腰くらいまで背丈があるラベンダーが2.3メートルほど生い茂っていたんです。わたしはただ「あぁ、ラベンダーが咲いている綺麗だな」と思って見ていたわけですが、わたしの少し前を歩いていたおじさんが、体右半分くらい埋もれる勢いで、ラベンダーを撫でるようにして歩いていったんです。その姿を後ろから見ていたわたしは、何やってんだあのおじさん…と少し変に思ったのとほぼ同時に、ふわっとラベンダーの香りが風にのってやってきたのを感じたのです。そのラベンダーが生い茂った箇所を通り過ぎても、不思議と香りは続いているように感じました。多分あのおじさんにはラベンダーの香りがこべりついていて、もしかしたら帰り道の電車の中でも家に帰っても布団に入っても、ほんのりでも香っていて、何処かの誰かが「あ、ラベンダーの香りだ」なんて思うのかな…と想像していたらなんだか切なくて、胸がキュっとしたという話です。おじさん、またこっそり後ろを歩かせておくれ。何処かで。

 

“いくつになっても僕ら海へ行くのさ  海のなかへは入らないけど  言葉はいらないから海へ行くのさ  ただ眺めてるだけだけど”

uminecosoundsの「ジムニー」という曲から。『masala』というアルバムをタワレコで試聴買いしてしまったのだけど、この曲のこの歌詞がどうしても離れない。最高だと思う。。どうしたって夏がきて、そして、終わる。

気の抜けたサイダーみたいな

7月になることに対してもう少し身構えたりフワフワしたりしていたかった。ついこの間まで街はもう6月の感じだったはずなのに、早すぎるよ。今日で6月が終わる。それは誰にも、どうすることもできなくて切ないな。

濃いめの青と、鮮やかな朱色が混ざり合うのってなんて綺麗なんだろう。その時わたしはただただ、薄く明るくなってほしいと願います。何処かで見たことあるようなものを追いかける感覚で。風景の作り出すハイライトな部分を掻き消していこう。情景のコントラストだけを梳かしていこう。

君はまるでどこか違う世界の昔話をするかのように、樹木の年輪の話や、宇宙の話をしてくれた。わたしは頭が悪いから多分話の半分くらいは分かっていなかったこともあると思うけど、ただただ聞いていたくて何も言えなかったよ。言葉にできなくて、うん、うん、と相槌をついては何度も心の中で微笑んだり泣きそうになったりした。わたしには勿体ない。わたしには広すぎる。わたしには遠すぎる。知りたいことと知りたくないこと、どっちが多いかって言われたら知りたくないことのほうが多いと思う。この世界の美しい瞬間のことや原理なんて知りたくないし、何も考えないようにするには何も考えないことを考えないといけないってこと。布団に隠れて誰にも見つからないようにうまく逃げ回っていたんだ。夢の中で…。

(この話はフィクションです)

Put a Light On

ハッピーなことを書きたいなぁと思ったんだけど、あらたまって書くほどハッピーな出来事なんてわたしの人生であっただろうか。……特にない。虚しい奴すぎて最近構ってくださる方に申し訳ないしむしろ開き直れるね。うまく素直になることができないなぁ。人に素直になれたらどれだけいいことか。この前友達が恋したいって話してて「愛されたい」って言ってたから「愛されたいよね」って返したけど違うかも。「信じたい」なぁ。信じてほしいより信じたい。なんでこんなに人を信じられないのかは分からないけど、信じることができた方が楽なのだとは思ってるんですがね。。多分そのためには友達も言ってたように「愛されたい」のだとも思う。「信じたい」と「愛されたい」はセットなのかもしれない…って今度はそう答えよう。でもそれって……やっぱ独りよがりで自己愛しかないくそ野郎ですなぁ。その友達にはわたしのくそっぷりを存分に知っていってほしいな。また暗くなってしまった。でもさ、「今日は終わるんだよ」。

 

なんとなく思い出した去年の出来事なんだけど、大学の人で趣味が合いそうな子がいて。同じ科なんだけど少ししか喋ったことはなくて。でもTwitterでフォローしてたから(現代っ子っぽい)その子の好みは薄々知ってたんです。その子は写真を撮る子で映画も好きで音楽もSigur RosとかVampire Weekendとか好きで銀色夏生が好きでTwitterでの呟きとかも詩的で刺さるんです。とにかく感性が似ててもっと仲良くなれそうだなって勝手に思ってたんですよ。で、その子がTwitterで今日誕生日だみたいなことを言ってたのを見掛けて偶然その日同じ授業をとってたので授業始まる直前に初めて自分から話しかけたんです(自分から普段よく喋る人以外に話しかけるなどあり得ない)。まぁほんとにひと言ふた言なんですけど。。「おはよう」と「誕生日おめでとう」ってことだけ言って自分の席について普通に授業受けて帰りました。そしたらその日の夜にTwitterでその子が「今日うれしかったこと、〇〇が声かけてくれた上に誕生日おめでとうって言ってくれたこと」って呟いてて。あぁ、勇気だして話しかけてヨカッタってなってお気に入りボタン100万回くらい押しました(押したい気分でした)。後日その子から洋楽開拓できないからわたしのオススメ音楽知りたいって言ってきてくれて小躍りしながらBombay Bicycle Clubの『A Different Kind Of Fix』とWild Nothingの『Gemini』を貸したっていう出来事もありました。

本当に気になる人でも自分から話しかけるなんてまずしないから。こういう経験は他人からしたらなんてことないことなんだろうけど、わたしはそれ見ただけでハッピーになってしまったよ。そう、わたしがハッピーになるなんて実は簡単なことなんだぜ。愛と勇気だけを友達に生きていこう。よし、ハッピーっぽいブログ書けた。おわり。

 

センチメンタル成分

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ブログが書きたいよ。毎日毎日なにをするでもなく大学行ったり行かなかったりバイトしたり散歩したり映画観たり音楽聴いたりしてるしょうもない自分でも言葉を綴りたいよ。でもそんな生活の中で見いだせる事なんてフェイスブックで いいね を押し合ってるあいつらよりも最悪なものだろうな。。卒制でやりたいことは「夕方の美しさと切なさについて」です。繰り返される諸行無常

 

そういえばこの前、いつも通り電車に乗ったんだけど大学に行くのがすごく嫌になってしまって、乗り換えなきゃいけない駅を通り過ぎて乗り続けゆらゆらと揺られていたわけです。「〇〇行き」の文字はいつも見ていたけれど実際に〇〇の街の景色を車窓から眺めるのは初めてだったから少し不思議な気分になった。少しだけ高い位置から外の景色があって、川があったり坂があったり道が細かったりするのが見えた。いつも乗る電車の終点に着いてしまって、「はてどうしよう」と思ったけどまだ時間があるしもう少し行ってみようと思って電車を乗り換えた。ボックス席?になった途端、なんだかソワソワしてしまって窓際に座って、本でも読もうかなぁと思って鞄から出したけど結局1ページも読まなかった。車窓から見える景色がみるみる変わっていくのにドキドキしたし、ただただボーっとしてしまっていた。まわりには昼間から1人でビール飲んでるサラリーマンやら、でっかいリュックに帽子を被ったハイキングに出掛けるであろうご老人たちくらいしか居なかったなぁ。音楽も聴かずにずっと景色を眺めていたよ。トンネルに入ったり出たりを繰り返して小さな街があったり誰もいない山奥が続いたり、それはなんてことはない、ただの世界だった。その電車も終点に着いてしまったのでわたしは改札も出ず折り返しの同じ電車のまた窓際に座って帰ってきた。その時「あぁ、今わたしがしてることは死んだほうがいいくらい腐ってることだけど、それでも夕日はオレンジ色に街を染めるのだなぁ。。」と感じていた。顔も名前も知らない人たちが住んでる家も、その人たちが耕した畑も、わたしの住んでいるところには無い山も、夕日色だったんだよ。それは美しいというかなんというか…疑う余地もないくらい切実で、胸が痛くなる思いでした。ひたすら電車に揺られてバイトに間に合うようにいつもの街に帰ってきて、何にもしてないのにその日はとても疲れてしまった…。もうこんなことはやらないと思う。。

 

バイトでレジ打ってる時におばあちゃんがクレジットカードで支払いをしていて、「これでお金が一瞬で払えちゃうんだからスゴいわよねぇ。わたしからしたら今の時代は宇宙にいるようなもんよ。」って言ってて。「宇宙にいるようなもん」っていう表現がすごいなと思った。右も左も分からないってことかな。わたしたちが今いるココも宇宙の中だけど、そのおばあちゃんが言ってたのは地球の外って意味の宇宙なんだろう。当たり前だけど、そのおばあちゃんにとっての宇宙も、わたしにとっての宇宙も、意味も価値も大きさも違うんだろうなぁ。

言葉は自由だけど、言葉は言葉でしかないし疑ってしまうのが嫌だ。距離があるのに、ナイフを突きつけられてる感覚になる。誠実な人に向き合うためにはこちらも誠実に向き合わなくてはいけないというとても当たり前だが御座なりにしがちなことを最近噛みしめております。どうだっていいことばかりじゃないんだ、生きるってことは。

 

写真は5月あたまに行った海の写真。映ってるの知らない親子だけど、ミツメのタイムマシンが入ってるアルバム風に偶然撮れたからお気に入り。(90年に戻りたい - 日没)

この前友人が父親から譲り受けたフィルムカメラで初めて撮ったやつを現像したんだけど、とてもよかった。撮り方分からなくてテキトーに設定してたから「全部真っ白だったらどうしよう」とか言ってたけどちゃんと映ってた。一緒に行った海の写真を見せてくれて、あの日くるりの「屏風浦」ときのこ帝国の「海と花束」を聴きながら砂浜を歩いたことを鮮明に思い出してしまった。裸足になって貝殻を拾ったり砂浜も歩いたり水に少しつかったりしていたら、翌日まで歩いた砂浜の感触が足の裏にこべりついていたな。それはまさに、過去の忘れたいコトがこべりついて自分を雁字搦めにしてるみたいに。