日没

東京はクリームソーダの街らしい

あの曇った廊下

夕飯に酢豚がでた。わたしが昼間 八百屋で売られていたパイナップルを おもひでぽろぽろみたいにいい匂い で嬉しくなって、酢豚に入れたら としきりに言ったからだ。しかしでてきたのは豚も鶏もない、お肉なしの酢豚だった。わたしが買ってきたパイナップルが主役かのようにごろごろと入っていて、あとは茄子やにんじん、玉ねぎなどが炒められていた。パイナップルはすごくすごく甘かったけれど、これは酢豚じゃない。ガッカリしながら食べていると ふと父が「お婆ちゃんは酢豚が得意料理だったんだ」誰に話してるわけでもないようなボソッとした声で言うので、わたしは無視し食べ続けているとしばらくして「お婆ちゃんは酢豚が得意料理だったんだ」もう一度同じ声の大きさで父が言った。「へぇ、知らなかった」わたしも独り言みたいに返した。なんでも昔から得意料理だったらしいお婆ちゃんが、決して簡単ではない手間がかかる酢豚を一週間に3回も作った時に、父は異変に気づいたのだと言う。お婆ちゃんがボケ始めたことは憶えているが、酢豚のことはまるで憶えていない。両親が共働きだったから、ヘルパーさんが毎日のように家に来ていた。わたしも学童クラブにあずけられていたから、そこまで関わりはなかったけれど、知らない人が家にいるというのは子どもながらに不快だった。その日はどうしてもヘルパーさんが来れない日で、わたしがお婆ちゃんと一緒にいなくてはならなかった。夕方頃になるとお婆ちゃんはソワソワしだして、帰らなきゃ みたいなことを言いだしたのだ。ついに玄関から外に出て行こうとするので、仕方なくついて出たマンションの廊下は、曇っていたと思う。お婆ちゃんはわたしの言うことが全然信用できないみたいで、わたしの手をすごい力で振り払って人の家の扉を開けようとするから。どうしたらいいのか分からなくて止めるしかできなくて、それでその時 お婆ちゃんに叩かれた。それでも止めるしかできなかった。夜、帰ってきた両親に話せたんだっけ、そのこと。よく思い出せない。あの日以降お婆ちゃんが死ぬまで、どんどん悪化する症状と比例してわたしはすごくぶっきらぼうに接していたし、それを両親も良く思ってないと子どもながらに気づいていた。なのに、お葬式で最後に父が読んだ手紙の、それは本当に最後の行くらいに「本当はつらくてたまらなかったろうけれど、アユミたちは文句も言わずよくお婆ちゃんの面倒をみてくれて、ありがとう」と父が読みあげた瞬間に なぜか涙がボロボロでてきて止まらなくて 母に駆け寄ったのを鮮明に覚えている。お婆ちゃんが作った酢豚 もうもちろん食べれないし、そんなこと今更知る必要もないけれど、パイナップルは入っていたのかな。そのパイナップルも、すごく甘いのだろうか。

甘くあってほしい、そんな意味のないことを願った。