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日没

東京はクリームソーダの街らしい

センチメンタル成分

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ブログが書きたいよ。毎日毎日なにをするでもなく大学行ったり行かなかったりバイトしたり散歩したり映画観たり音楽聴いたりしてるしょうもない自分でも言葉を綴りたいよ。でもそんな生活の中で見いだせる事なんてフェイスブックで いいね を押し合ってるあいつらよりも最悪なものだろうな。。卒制でやりたいことは「夕方の美しさと切なさについて」です。繰り返される諸行無常

 

そういえばこの前、いつも通り電車に乗ったんだけど大学に行くのがすごく嫌になってしまって、乗り換えなきゃいけない駅を通り過ぎて乗り続けゆらゆらと揺られていたわけです。「〇〇行き」の文字はいつも見ていたけれど実際に〇〇の街の景色を車窓から眺めるのは初めてだったから少し不思議な気分になった。少しだけ高い位置から外の景色があって、川があったり坂があったり道が細かったりするのが見えた。いつも乗る電車の終点に着いてしまって、「はてどうしよう」と思ったけどまだ時間があるしもう少し行ってみようと思って電車を乗り換えた。ボックス席?になった途端、なんだかソワソワしてしまって窓際に座って、本でも読もうかなぁと思って鞄から出したけど結局1ページも読まなかった。車窓から見える景色がみるみる変わっていくのにドキドキしたし、ただただボーっとしてしまっていた。まわりには昼間から1人でビール飲んでるサラリーマンやら、でっかいリュックに帽子を被ったハイキングに出掛けるであろうご老人たちくらいしか居なかったなぁ。音楽も聴かずにずっと景色を眺めていたよ。トンネルに入ったり出たりを繰り返して小さな街があったり誰もいない山奥が続いたり、それはなんてことはない、ただの世界だった。その電車も終点に着いてしまったのでわたしは改札も出ず折り返しの同じ電車のまた窓際に座って帰ってきた。その時「あぁ、今わたしがしてることは死んだほうがいいくらい腐ってることだけど、それでも夕日はオレンジ色に街を染めるのだなぁ。。」と感じていた。顔も名前も知らない人たちが住んでる家も、その人たちが耕した畑も、わたしの住んでいるところには無い山も、夕日色だったんだよ。それは美しいというかなんというか…疑う余地もないくらい切実で、胸が痛くなる思いでした。ひたすら電車に揺られてバイトに間に合うようにいつもの街に帰ってきて、何にもしてないのにその日はとても疲れてしまった…。もうこんなことはやらないと思う。。

 

バイトでレジ打ってる時におばあちゃんがクレジットカードで支払いをしていて、「これでお金が一瞬で払えちゃうんだからスゴいわよねぇ。わたしからしたら今の時代は宇宙にいるようなもんよ。」って言ってて。「宇宙にいるようなもん」っていう表現がすごいなと思った。右も左も分からないってことかな。わたしたちが今いるココも宇宙の中だけど、そのおばあちゃんが言ってたのは地球の外って意味の宇宙なんだろう。当たり前だけど、そのおばあちゃんにとっての宇宙も、わたしにとっての宇宙も、意味も価値も大きさも違うんだろうなぁ。

言葉は自由だけど、言葉は言葉でしかないし疑ってしまうのが嫌だ。距離があるのに、ナイフを突きつけられてる感覚になる。誠実な人に向き合うためにはこちらも誠実に向き合わなくてはいけないというとても当たり前だが御座なりにしがちなことを最近噛みしめております。どうだっていいことばかりじゃないんだ、生きるってことは。

 

写真は5月あたまに行った海の写真。映ってるの知らない親子だけど、ミツメのタイムマシンが入ってるアルバム風に偶然撮れたからお気に入り。(90年に戻りたい - 日没)

この前友人が父親から譲り受けたフィルムカメラで初めて撮ったやつを現像したんだけど、とてもよかった。撮り方分からなくてテキトーに設定してたから「全部真っ白だったらどうしよう」とか言ってたけどちゃんと映ってた。一緒に行った海の写真を見せてくれて、あの日くるりの「屏風浦」ときのこ帝国の「海と花束」を聴きながら砂浜を歩いたことを鮮明に思い出してしまった。裸足になって貝殻を拾ったり砂浜も歩いたり水に少しつかったりしていたら、翌日まで歩いた砂浜の感触が足の裏にこべりついていたな。それはまさに、過去の忘れたいコトがこべりついて自分を雁字搦めにしてるみたいに。