日没

東京はクリームソーダの街らしい

ちょいとハッピーエンドまで

 

ハロー。やっぱり続きませんでしたね…ブログ。1ヶ月もあいてしまった。これだけあいてしまうと何を書いていたのか忘れてしまいましたが、やはり大したことは書けないのでとり留めの無いことを書くしかないですね。この前久しぶりに高校の友人に会いました。ペットの犬のことが気になったので(それは何気なくただ元気かなぁと思って)聞いてみたんだけど、「そういえば〇〇(ペットの名前)元気?……まだ生きてる…?」と口から出てしまったわけです。悪気なんか全くないし自分でもびっくりしたんだけど、これってすごいことだなって思ったわけです。だってその人と会う時や昔の友人の話をするときに「まだ生きてる?」なんて疑問まず最初に出てくるわけがないのに。犬でも人でも死は必ずくるのにね、死に対しての感覚が自分の中でこんなにも違ったことに驚いて、この違和感に少し戸惑いました。なんだか気持ち悪いよね。

…こんな感覚になったからってわけじゃないけど、いろんなことを思い出します。わたし1年前に高校時代の友人を亡くしました。まだ1年なのに思い出すって言ってることがすでに残酷に思えてしまうが。。正直、わたしはその子と特に関わりはありませんでした。同じ部活だったしその子のバンドのライブも見に行ったけど、話したのは数回くらいだしそれも挨拶程度のものだった。高校卒業してからもちろん何もなかった。彼女が自殺したと部活の友人からの電話で知らされた。めちゃくちゃ混乱したけど、わたしはその内容をまだ知らされていない友人に電話で知らせた。どういう感情で伝えればいいか分からなかったし、戸惑いで声は震えてたと思う。でもよく考えるとわたしは彼女のことを何も知らないし知ろうともしてなかった人間だ。彼女のお通夜に参列するその時まで、わたしは彼女との思い出を探したけれど見つからなかったし、泣けなかった。ただただ苦しかった。だからわたしなんかが行っていいものかとも思ったけれど、気持ちの整理はつかないままその日を迎えた。まわりには彼女と仲が良かった高校の友人が居たし、彼女ととても仲が良かったであろう小・中学校の友人もたくさん居た。わたしはこの日を迎えるまで1人で考えていた時間や誰に言えるわけでもない世界でのやりすごした時間の苦しみが消えていくのを感じた。お通夜に居た人たちはみんな彼女のことを知っていて、みんな悲しんでいるんだと分かると、なぜだか心が軽くなった。最後の別れが終わったあと、ロビーで高校の人たちが集まって話をしているのを遠くから見ていた。泣いている人もいたし思い出話で笑っている人もいた。その時なぜかわたしは涙が堪えきれなくなって1人で外にでた。彼女のことを何も知らない、知ろうともしなかった自分を恥じた。それは彼女が自殺まで追い込まれていた気持ちに気づいてあげられなくてごめんとかそういうんじゃなくて……ただ単に出会っていたことに背中を向けて、誠実に人と関わってこなかった高校時代17歳の自分が恥ずかしくなったのと、この場にきて逆に心が軽くなってしまった今20歳の自分の無神経さに腹が立った。

そのあとは正直いろいろあった。取り残された彼女の友人たちは精神的に危険な状態になってしまった人もいたし、わたし自身その思いはおろかこの事実を誰にも言えない苦しみがずっと続いた。いつまで続くんだろうと思ったけれど、わたしのこの苦しみは徐々に和らいでいる。今なんて最初言ったように友人のペットに対して「まだ生きてる?」とか聞くぐらいだ、ある意味狂ってる。結局1年前に友人を亡くしたことは、ある1人にだけ話した。その人はただ聞いてくれたけど、このことを話した時にその人はおそらくわたしなんかよりすごくすごく苦しい状況にいた。。それなのに自分勝手に話してしまったこと、今となっては最悪だった…。だからもう他の誰にも言えないし言う気もないからココにずらずらと書いてしまった…見ず知らずの人が見てるネットに書いてるってのもある意味狂ってるんだけど笑。なんか今吐きだしてみたくなったんだ、許して。